2007年08月09日
赤い皇帝 ミハエル・シューマッハ
やっぱりF1史上最強、最速の男といえばミハエル・シューマッハしかないでしょう。
F1は個人だけでなくチーム自体が強くないと(マシン、戦略)勝てないけど、ドライバーとしての技術において彼の右にでる人物はいないと思います。
今日はそんなシューマッハについて説明します。
ミヒャエル・シューマッハー(Michael Schumacher, 1969年1月3日 - )は、ドイツ生まれの元F1ドライバーである。日本ではマスコミで多く用いられるミハエル・シューマッハの表記が一般的であり、本稿でも以下そのように記す。愛称は名前を英語読みしたマイケル、もしくはシューミー(Schumi)。現在はフェラーリスーパーアドバイザーとして、F1の現場に立っている。
F1界の主な記録をことごとく更新し、ファン・マヌエル・ファンジオ、ジム・クラーク、ジャッキー・スチュワート、ニキ・ラウダ、アラン・プロスト、アイルトン・セナらとともにF1史上に残るドライバーと言われている。ドイツ人初のF1チャンピオンであり、現在までドイツ人ドライバー唯一のF1チャンピオンでもある。
6歳年下の弟ラルフもF1ドライバーである。既婚で2子をもうけている。
フェラーリ移籍後、フジテレビではF1中継で「赤い皇帝」や「ターミネーター」などの呼称・通称が使われた。
ではフェラーリ在籍時の彼の軌跡をたどります。
1996年には、名門フェラーリに移籍。フェラーリでは、ルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロ社長の下、長く低迷していたチームの再建が始まっていたものの、当時最強のウィリアムズ勢に対しては劣勢と見られていた。しかし大雨のスペインGPでの優勝など、早くも3勝をマークして見せた。
1997年は、最終戦ヨーロッパGPでタイトルを争うジャック・ヴィルヌーヴ(ウィリアムズ・ルノー)と接触しリタイア、故意の接触と見なされシーズン終了後、ランキング剥奪の裁定を受けた(獲得ポイントなどの剥奪はなし)。また、この件に関する制裁の一環として、FIAからシーズンオフの交通安全キャンペーンでの奉仕活動も命じられている。また、この年のオーストラリアGPから前年にフォーミュラニッポンで優勝した弟のラルフ・シューマッハがF1に参戦した。
1998年は、シーズン序盤はミカ・ハッキネンに周回遅れにされるなど圧倒されるも、最終戦日本GPでは4ポイント差まで詰め寄る。しかし、日本GPでは予選でポールポジションをとるも、決勝ではグリッド上でエンジンストール。最後尾に回される。追い上げをはかったがタイヤバーストでリタイア。2年連続最終戦でタイトルを逃す結果となる。
1999年はシリーズをリードするも、第8戦イギリスGPでオープニングラップに、ブレーキトラブルでコースアウトし、そのままタイヤバリアにクラッシュ。足を骨折して7レースの欠場を余儀なくされ、ドライバーズタイトルを逃す。しかし、チームとしては1983年以来となるコンストラクターズタイトル獲得を果たした。
2000年は、ハッキネンとの激しい戦いを制し、ついに自身3度目、フェラーリ在籍ドライバーでは1979年のジョディー・シェクター以来となるドライバーズタイトルを獲得した。また、イタリアGPでセナの持つ勝利数(41勝)と並んだが、このレース前が3連続リタイアなどで5戦勝利から遠ざかり、ハッキネンにポイントリーダーの座を譲るなどのプレッシャーから解放されたこともあってか、珍しくインタビュー中に涙ぐむシーンが見られた。ただ、このレースでは多重クラッシュで弾け飛んだパーツがオフィシャルの命を奪っており、記録達成で嬉し泣きをしている場合ではない、自己中心的だ、との強い批判も起こった。このレースから翌年のマレーシアGPまで6戦連続のポール・トゥ・ウィンを記録している。
2001年には、プロストの持つF1最多勝記録(51勝)を更新し、4度目のチャンピオンを獲得。サンマリノGPで史上初の兄弟1-2も果たしている(ラルフ1位、ミハエル2位)。
2002年には、ファンジオの持つ偉大な記録に並ぶ5度目のチャンピオンを獲得。この年は全17戦中優勝11回で自身とマンセルのもつシーズン最多勝記録を更新し、さらに全レースで表彰台獲得と圧倒的な強さを見せた。また、7戦を残してのチャンピオン獲得は伝説ですらある。
2003年はシーズン開幕当初に躓いたことにより出遅れ、キミ・ライコネンやファン・パブロ・モントーヤらとシーズン終盤までタイトル争いを繰り広げた。結果的には最終戦の日本GPで、ライコネンを2ポイント差で下し4年連続6度目のチャンピオンを獲得した。
2004年は前年の苦境とはうってかわり、開幕戦から5戦連続優勝、第6戦モナコGPはリタイアを喫するもののその後は7連勝と、2002年に勝るとも劣らない圧倒的な強さを見せた。最終的には全18戦中13勝でまたもシーズン最多勝記録を更新。15回の表彰台獲得で圧倒的な差をつけてチャンピオンを獲得し、ついに5年連続で計7度のチャンピオンに輝いた。また、この年の鈴鹿が弟のラルフ・シューマッハとの最後の1-2フィニッシュとなった。兄・ミハエルが優勝で、弟・ラルフが2位という結果で終わった。
2005年は、第8戦カナダGPまでなかなか勝てなかったが、第9戦アメリカGPでミシュラン勢14台が安全上の問題からフォーメーションラップ終了後にリタイアし、わずか6台でのレースとなったこともあって、ようやくシーズン初勝利をあげることができた。しかし、その後も苦戦が続き、結果的にはその1勝に終わる。ついに21世紀になってから初めてチャンピオンの座を、フェルナンド・アロンソに明け渡すこととなってしまった。
2006年は、開幕戦バーレーンGPでポールポジションの獲得回数がアイルトン・セナと並び、第4戦サンマリノGPでアイルトン・セナを超える通算66度目のポールポジションを獲得し、そのままポール・トゥ・ウィンでシーズン初優勝を飾った。シーズン序盤はアロンソにポイントでリードを許すが、シーズンが進むにつれて差を縮め第16戦中国GPでアロンソと同点になる。第17戦鈴鹿で逆襲を誓うものの、2回目のピットストップが終わり、その直後、チェッカーを受けるだけという状態のときにエンジンが白煙をあげてしまい、リタイアとなった。最終戦ブラジルGPでも、予選の第1ラウンドと第2ラウンドでトップタイムを記録したものの、第3ラウンドが始まり、ピットからコースに出た直後にマシンが故障し、時間内に修理できず、第3ラウンドで記録を取れなかったため、10番グリッドからのスタートという自身の最後の厳しいレースとなった。決勝はフィジケラとの接触により彼のタイヤがパンクし、緊急でピットに入り、優勝が絶望的であったなか、去年までフェラーリのチームメイトであったルーベンス・バリチェロを抜くときには、手を挙げて前に行くという感動的なシーンもファンに見せてくれた。最後のレースの結果は4位で、伝説のチャンピオンにふさわしいレースをみせるも表彰台にはあと一歩届かなかった。アロンソに2年連続でチャンピオンの座を奪われた。第15戦イタリアGP後の公式記者会見で自身の引退と後任のドライバーのキミ・ライコネンを表明し、この年をもってF1を引退した。また、この年のフランスGPが彼にとっての最後の68回目のポール獲得とポールトゥーウィンを決めたレースで、雨の中国GPが彼にとっての最後の91回目の勝利となった。
とにかく彼の走りには狂いがなく正確かつ冷静なのが一番すごいところだと思います。
極限状態での集中力の高さで彼に勝る人間はそうはいないと思います。
私もそうなりたいと思っているのではありますが、、、、、(笑)
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- at 22:21
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